1サムエル19章 その手には槍を持っていた

1サム19:9「ときに、わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた」
手に槍を持つことは、ダビデに対する怒りを静めるつもりはない、というサウルの決意のようにも感じます。心の中に悪い思いが支配したとき、どれだけ早くその思いを追い出せるかがポイントになります。イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい(マタ16:6)」と言われました。最初は小さな思いであっても、次第に膨れ上がるのです(ガラ5:9)。サウルの最初の思いは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(18:7)」という女たちの言った何気ない言葉からでした。サウルはその思いを放置しておいたために、膨れ上がりダビデを殺したいと思うまでになりました。創世記にもカインが自分の捧げものに主が目を留められなかったことに怒って、顔を伏せたままでいた記述があります(創4:5)。そのときの主のことば「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである(創4:7)」は、そのままサウルに当てはまることばです。サウルもカインも自分の中にある恋い慕っている罪を治めることがきませんでした。カインはそのままアベルを野に連れ出し殺し(創4:8)、サウルもまたダビデを殺すことに勢力を傾けました。その象徴となったのが手に握った槍だと思います。自分の手を離さない限り、罪はサウルの心を支配し、サウルは罪の奴隷となってしまうのです。

1サムエル18章 先に立って行動していた

1サム18:16「イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである」
ダビデを千人隊長にしたのはサウルですから(13)、ダビデが先頭に立って行動するのしかたのないことです。ただ、ダビデがいつも戦果を挙げ(15)、彼の戦術、作戦が的確だとするなら、ダビデの評価が上がるのは当然のことです。一方、サウルは「わざわいをもたらす神の霊(10)」によって、悩まされていました。神の霊ならいつでも下って欲しいように思いますが、それがわざわいをもたらすのなら考えものです。それはサウルが決してダビデを認めようとせず、むしろ人気者になっていくダビデを恐れ、ねたんだからだと思います。どんなに神の霊が下ろうとも、自分の心に人を赦さない思いがあるのなら、どうやって和解することが出来るでしょうか。サウルはダビデをさばくことをやめませんでした。それが、神の戒めとは反することでもサウルには止めることが出来なかったのです。その根底には「自分は王なのに」という思いが支配していたように見えます(7)。いっそのこと王位など捨てるだけの覚悟で主に仕えれば、サウルの人生ももう少しましになったのかも知れません。自分はもっと高い座にすわり、人々から賞賛を受けたい、と思い始めるならサタンが堕落したときの考えと同じになってしまいます(イザ14:13:)。サウルの心には妬みと恐れと不安が一度に訪れ、わざわいをもたらす準備が整い始めていたのです。

1サムエル13章 ご自分の民の君主に任命して

1サム13:14「今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ」
文脈からすると7日目の終わりにしびれを切らしたサウルが、自ら全焼のいけにえを捧げた直後にサムエルが現れたことになっています(10)。するとまだ7日目は終わっておらず、サウルがあと数時間だけ待つ忍耐があれば、サムエルと約束の時間内に会うことができたはずです。ほんの1-2時間のためにサウルは王の座を追われる形になりました。それどころか、主はほかの御心にかなう人を見つけ、次の王に任命が決まっていると言われるのです(14)。「任命しておられる」の英語訳は「has appointed」で、すでにその行為は済んでいる意味になっています。サウルが30歳で王になったと訳しているのは新改訳と口語訳だけで、2017年訳では「ある年齢で」とぼかした訳になっています。また12年、つまり42歳という数字も使徒に40年という数字が書かれていますが(使13:21)、マソラ本文などには使われていません。しかし、息子ヨナタンが道具持ちとともに戦う記述を見る限り、すくなくとも彼の年齢は10代後半の青年のような気がします(14:12-15)。そうするとヨナタンの父サウルは30よりはもう少し年上だったのかもしれません。サムエルをもう少し待つ忍耐力を持てるには十分な年齢でなかった可能性があります。主は忍耐力があるかいつもご覧になっています。

1サムエル11章 サウルを王とした

1サム11:15「民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ」
王を求めることは必然でしたが、それは神の支配から人の支配に変わることで、主としては好ましく思っていませんでした(8:7)。それでもサムエルに対し民の声を聞くように命じ、そのかわり王がいかに民に対して強い権力を持つかを知らさせました(8:12-18)。それで少しは王を求めることをためらえばよかったのですが、イスラエルの民はますます王を求めるようになったのです。結果的には王を求めることは悪で、「私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです(12:19)」と後悔の念をサムエルに告げています。しかし、サムエルもサウルを主から示され、実質的には王制がスタートしてしまいました。実は現代にいたるまでこの罪は続いているのです。神を王とする国はなくなってしまい、王制の次には共和制、民主制、共産主義、独裁者支配などいろいろな形態の国が生まれました。選挙で選んだ国の代表が統治するのがよいのか、王が統治した方がよいのかはわかりません。どの仕組みにしても神が中心にあって、神が治める国はありません。イスラエルにしても大統領がいて首相がいます。サムエルの時代のイスラエルの民を責めることはできません。我々も同じ罪の下にいるのです。

1サムエル9章 さあ、予見者のところへ行こう

1サム9:9「昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである」
預言者は神のことばを預かり民に伝える者のことです。代表的な預言者モーセだと言えます。一方、予見者という言葉は馴染みが薄く、サムエルに対してと、アサ王の時代のハナニにだけ使われている言葉です。ヘブル語では預言者は「nabiy(ナビー)」で、予見者は「roeh(ロエー)」が使われています。英語「prophet」にたいして予見者は「seer」という単語が使われています。「seer」の意味は「先を見る人」や「幻」という意味があります。サムエルの時代に何か困ったことがあると、「さあ、予見者のところへ行こう」という合言葉のようになっていたようです。サウルの心配事は行方不明の雌ろばのことです。サウルたちは、もし先見者に会えば雌ろばがいる方向を示してくれるだろうと思ったのです。聖書を読む者は、サウルの家からろばがいなくなったことも、神のご計画の内だったと理解できますが、サウルとしては自分がサムエルに待たれていて、これから壮大な神のご計画を聞かされるとは夢にも思っていませんでした(10;1-8)。しかも、油そそがれ(10:1)神の霊まで下ってくるのです(10:10)。サウルにとって「さあ、予見者のところへ行こう」は、単なる相づちで終わらなかったのです。

1サムエル7章 主の手がペリシテ人を防いでいた

1サム7:13「こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、入って来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた」
サムエルは最後の士師だとされ、多くの歴史学者はサムエルの息子たちヨエルとアビヤは士師の数に数えていません(8:2)。サムエルは幼い時から主の声を聞くことができました(3:4)。サムエルはイスラエルを主の道へ導き、さながらモーセヨシュアのような指導者だったと思います。しかし、前人のたとえに違わず、サムエルにも寿命があり、永遠にイスラエルを導けるわけではありませんでした。サムエルの息子たちが残念なさばきつかさだったために(8:3)、次第に王を求める声がイスラエルの中で高まっていくのです。サムエルが祈るならペリシテはイスラエルの領内に入って来ず、主がサムエルを大切に思い、サムエルに語りかける様子は主とモーセの関係を連想させます。そのように優れた指導者サムエルにも欠点はあり、彼は自分の息子たちを正しく導くことができませんでした。おそらく王をイスラエルに立てることは主のご計画だったと思います。サムエルの最後の仕事はイスラエルに最もふさわしい王を選出することです。サムエルは、サウル(10:1)とダビデ(16:13)に対して油を注ぎましたが、サウルが生きているうちにダビデにも油を注いだために、サウルはダビデを憎むようになりました。王を選ぶという仕事も一筋縄ではいかなかったのです。

1サムエル5章 それをもとの所に戻した

1サム5:3「アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した」
ギデオンの時代なら、バアルの祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒したのがギデオンだとわかっていたので、ミデヤン人はギデオンの父ヨアシュに抗議しました(士6:30)。サムエル記では神の箱が安置された場所がダゴンの宮だったので、ダゴンの像がとばっちりを受けた形になっています(2)。倒れていた神の像は自分で立ち直ることはできませんでした。ギデオンが言ったように、倒されたり、壊されたりしたのなら、その神自身が自ら争えば良いのです(士6:32)。また、パウロアテネの人たちに「(神は)何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません(使17:25)」と言ったように、ダゴンがうつぶせに倒れたのなら人の手を借りずに自分で起き上がればよいのです。残念ながらミデヤンの神もペリシテの神も、人がなすがままに置かれ、食べもしない供え物を供えられ、いいようにあしらわれている感があります。いったい人と神のどっちが主人で、どっちが仕える者なのか疑問に思います。それは主の箱をどう扱うか相談しているときにも起きます。勝手な想像で5つの金のねずみだとか、金の腫物だとか、いいかげんな解釈でイスラエルの神の心を測ろうとします(6:4-9)。そういう態度そのものが、まことの神、すなわち聖書に書かれているイスラエルの神の戒めを知らないことを証明しているのです。