エゼキエル46章 労働をする六日間

エゼ46:1「神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない」
神殿の内庭は毎日開いているわけではなく、安息日新月の祭り以外は閉ざされています。神殿の中には祭司たちが控える部屋もあり(40:45)、毎日いけにえがささげられていたので(43:25)、日々、神殿内では祭司が何かしらの務めをしていることになります。君主は民の代表としていけにえを献げますが(2)、いけにえを献げた後、君主が出て行ったならば開けられた門は閉じられます(12)。民は北と南の門から入るようになっていますが、入った門から出てはいけないことになっています(9)。これは、折り返すことを禁じているもので、もと来た道を戻ることは、あたかも出エジプトしたイスラエルの民がエジプトに戻りたい(民11:18)と言ったことを思い出させます。神殿が建てられたなら、神殿中心の生活になります。シナゴーグや教会の概念はここにはありません。安息日になったら、民は神殿にやって来て礼拝するのです。ささげ物の穀物は農作物の中から、動物はおそらく放牧地が近くにあるのでしょう。そう考えると、エゼキエル神殿を支える農家や放牧の世話をする民がいなければ、神殿運営は成り立たなくなります。神殿が何キュビトの大きさで、どういう構造かを調べた資料は多く見かけますが、ささげ物の供給ルートや民の役割などを語ったものは見たことがありません。

エゼキエル45章 あやまって罪を犯した者

エゼ45:20「その月の七日にも、あなたは、あやまって罪を犯した者やわきまえのない者のためにこのようにし、宮のために贖いをしなければならない」
エゼキエル神殿を千年王国の神殿と解釈する人たちもいるようです。君主は、12部族の長、12弟子などの意見もあります。千年王国に関しては黙示録の記述が最も詳しく出ています。黙示録には「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましい」と「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」の2種類の人たちが生き返り千年の間キリストとともに王になると書かれています(黙20:4)。それゆえに「わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主になる(37:25)」の君主はキリストのことです。また「わたしの君主たち(8)」は生き返った聖徒たちが当てはまります。1つの疑問は、千年の間サタンは底知れぬ所に投げ込まれ、民を惑わすことがないと書かれています(黙20:3)。サタンの誘惑がないのに罪を犯し、わきまえのない者がいるのでしょうか。千年王国に集う人たちは第一の復活を体験した人たちです(黙20:5)。彼らは幸いな者で、聖なる者だと書かれています(黙20:6)。いったい誰の罪のためにいけにえを毎日ほふり(23)、復活を遂げたにもかかわらず、主の御心に逆らう人たちがいるのでしょうか。エゼキエル神殿はなぞに満ちています。

エゼキエル44章 だれもわたしの聖所に入ってはならない

エゼ44:9「神である主はこう仰せられる。心にも肉体にも割礼を受けていない外国人は、だれもわたしの聖所に入ってはならない。イスラエル人の中にいる外国人はみなそうだ」
現在のイスラエルには神殿はありませんので、聖所に入る以前の問題です。1948年にイスラエルが建国を宣言したときに、唯一の神を信仰するダビデやソロモンの時代のイスラエルが復活するのだと考えた人もいたでしょう。しかし、実際にはイスラエルの人口分布はユダヤ人70%、アラブ系20%、残り10%はその他となっており、ユダヤ人だけの国家ではありません。しかも、宗教の自由が認められており、ただ一人の聖書に書かれている神だけを信仰する者だけがいるわけでもありません。ただし、国全体は安息日を中心に運営されており、企業も銀行もレストラン、デパートなど、金曜は午前中営業し、土曜日は休業するところがほどんどです。安息日に機械を運転することはなく、熱心なユダヤ教徒シナゴーグに行きます。ユダヤ教徒キリスト教徒の中にはエゼキエル神殿が近い将来建設されると信じている人もいます。その一方でアジア最大のゲイパレードが行われているのもイスラエルです。ユダヤ教徒の中でも聖書に書かれているとおりの律法を重んじ、行なっている人たちは10%にも満たない数字です。いざエゼキエルの神殿ができ、いけにえを捧げる準備も整ったとき、いったい誰が聖所に入ることができるのでしょうか。

エゼキエル42章 主に近づく祭司たち

エゼ42:13「彼は私に言った。「聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。その場所は神聖であるから、彼らはそこに最も聖なる物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえを置く」」
エゼキエル神殿では「祭壇」ということばがなく、いけにえは門の両側にある8つの台の上でほふることになっています(40:41)。また、南向きに作られた部屋は宮の任務を果たす祭司たちのためのもので、北向きの部屋は祭壇の任務を果たすツァドクの子孫のものだと書かれています(40:45-46)。このように祭司、つまりレビ族がエゼキエル神殿で仕えることが決まっており、かつて神が約束されたとおり「主ご自身が彼らの相続地である(申命18:2)」は、このエゼキエル神殿でも生きています。どうしてもキリストの十字架を信じる信仰を持つクリスチャンは、イエス・キリストご自身の血でただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いをされた(ヘブ9:12)パウロのことばを思い出してしまいます。また、契約の箱の問題もあります。20キュビト四方の至聖所が作られていますが(41:4)、パンの机、香壇、燭台の記述はありません。同時に至聖所に置くべき契約の箱についても何も言及していません。イエス様の十字架のときに、真っ二つに裂けた聖所と至聖所を仕切っていた幕は(マタ27:51)、エゼキエル神殿では2つ折りのとびらに変更されています(41:23-24)。この神殿の至聖所に着く方はイエス様なのでしょうか。

エゼキエル41章 ケルブには二つの顔があった

エゼ41:18「ケルビムと、なつめやしの木とが彫刻してあった。なつめやしの木はケルブとケルブとの間にあり、おのおのケルブには二つの顔があった」
ソロモン神殿では10キュビトのケルビムが翼を広げ、神殿の中で一方の壁からもう片方の壁まで届いていたと書かれています(1王6:25-27)。新改訳の1キュビトを44センチだとするなら、4.4メートルのケルビムが神殿の中で翼を広げているのです。エゼキエルの最初はケバル川のほとりでケルビムの幻を見ることから始まっています(1:1-5)。その幻によるなら、ケルビムには4つの顔と4つの翼があるとなっています(1:6)。顔は正面が人、右に獅子、左に牛、うしろに鷲となっています(1:10)。これはヨハネが見た4つの生き物の顔と同じです(黙4:7)。エゼキエル神殿の本堂の壁には人の顔と獅子の顔が彫ってあると書かれています(19)。どちらが右かわかりませんが、なつめやしとなつめやしの間にケルブがあり、片方のなつめやしに人の顔が向けられ、もう一方のなつめやしに獅子の顔が向いているのです。エゼキエル神殿のケルビムは彫刻として登場し、ソロモン神殿のケルビムは立体の像として大きく翼を広げています。もし、これからエゼキエル神殿が建てられるのなら、ぜひケルビムをどのように表現するかを見てみたいものです。そして、その造形が誰の手によって作られるのかは興味津々です。

エゼキエル40章 なつめやしの木が彫刻して

エゼ40:16「門の内側にある控え室と壁柱には格子窓が取りつけられ、玄関の間もそうであった。内側の回りには窓があり、壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった」
最初に説明されているのは、6キュビトの計りさおと、1キュビトが一手幅長いということです(5)。そして、場所はイスラエルにある高い山の南の町だと書かれています(2)。イスラエルで最も高い山はメロン山で、標高1208メートルあります。ただし、この山はガリラヤ湖の北東にあり、エルサレムからはかなり離れています。有名なオリーブ山は現在の嘆きの壁からは最も近い山といえますが、数十メートルの高さで山というより丘のようなイメージです。40章は外観と、外庭、中庭を説明しています。壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあったと書かれていますが、これはソロモン神殿にも彫られたものです。本堂内部ではなつめやしとケルビムが彫られており(41:18)、これもソロモン神殿にある記述と似ています(1王6:32)。ヨハネは黙示録の中で「天にある、神の神殿が開かれた(黙11:19)」と、天の神殿を見ており、その中に契約の箱を見つけています。ソロモン神殿とエゼキエル神殿でよく似たデザインなのは、天の神殿がモデルなのではないでしょうか。そのデザインの一つがなつめやしです。もう1つ大切なケルビムを彫り込まなければなりませんが、果たしてそれはどんな形をしているのでしょうか。

エゼキエル39章 イスラエルの山々に倒れ

エゼ39:4「あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする」
いかに多くの軍勢が攻めて来ようとも、神が相手ならどうしようもないでしょう。主は「わたしがこれを語るからだ(5)」と、ご自分のことばにかけて誓っておられます。神の口から一度出たことばは、神ご自身が取り消されるまで変わることがありません。1948年のイスラエル建国の際も、多くの不思議なことが重なり、イスラエルは自分たちの土地を獲得することができました。それらの不思議な出来事を偶然だと言う人も多くいますが、神を信じる者にとっては、背後に主が働いておられたことを知っています。このゴクが他の国と連合して攻めてくる記述にも、奪い取った武器は7年焼いても燃え尽きず(9)、死体を埋めるのには7ヶ月もかかると預言されています(12)。ヒゼキヤの時代にはアッシリアの軍勢に包囲されていたのに、一晩でアッシリア兵18万5千人が死体になっていました(1王19:35)。聖書にはそれが主の使いのやったことだと書かれています。ゴグの連合軍も同じように主の使いに打ち負かされるのでしょうか。世界中が見ている中で、主のわざが明らかにされるのは「わたしが主であることを知ろう(6)」とあるように、ご自身を世に示されるためです。時代が進み、世の終わりが近づくにつれて、主はご自身をはっきりと示されるようになるのだと思います。