哀歌となった

エゼ19:9「彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした」
素直に考えて、エジプトに連れて行かれたのは最後から4代目の王エホアハズでパロ・ネコによって連行された記述が残っています(2王23:34)。バビロンに連れて行かれたのは、即位わずか3ヶ月でバビロンに降伏したエホヤキンです(2王24:12)。彼は殺されませんでしたが、牢獄に閉じ込められバビロン王がエビル・メロダクに代わるまで釈放されませんでした(2王25:27)。そしてバビロンで一生を終え、エルサレムに戻ることはなかったのです。これらのことを嘆く詩がエゼキエルに与えられ哀歌となりました。主は怒り、いままでのイスラエルの民がしたことの責任を問い、イスラエルもユダも滅ぼしましたが、すべてが主のみ心だったのでしょうか?それはやむにやまれず、神の義を通した結果で、主はユダヤ人たち を心から愛おしいと思っていたはずです。それゆえ一連のさばきが終わるころには、国は消滅し、神殿では誰もいけにえを捧げる者はおらず、ともし火は消され、香りの煙ももう立ち上ることはありません。主ご自身が決定したことですが、決して喜んでやったことではありません。しかし、若獅子が人を食べることを覚え(6)、やもめたちを犯し、町々を廃墟にするなら(7)、それを止めないわけには行かなかったのだと思います。