申命記24章 いのちそのものを質に取る

申24:6「ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである」
ひき臼がそれほど重要なものとは思いませんでした。パンを焼くことはソドムに住んでいたロトの時代からあったことで、御使いがロトを訪ねたときにロトが彼らにパン種を入れないパンを焼いたことが書かれています(創19:3)。つまり、創世記の時代から小麦を挽き粉にする技術があったことがわかります。小麦自体は硬い殻に覆われており、そのままでは調理に向いていません。米も同じですが、脱穀をしないと食べられないのです。小麦の場合は米よりもさらに殻が硬いので、石臼などで挽かなければなりません。出エジプトのときには、イスラエルの民が急いでエジプトを出発したのでパンを焼く暇もなく、練り粉をこね鉢に入れたまま持ってきたことが書かれています(出12:34)。つまり、エジプトでも彼らはひき臼を使って小麦を挽いてパンを焼いていたのです。ひき臼のヘブル語は「recheh(レヘー)」が使われていますが、旧約聖書では5回しか登場していません。しかし、申命記によれば、ひき臼はいのちに相当する大切な道具であると書かれています。ほかのものを質草にできてもひき臼はしてはならないと命じられています(6)。実は天から降ってきたマナもひき臼で挽かなければならなかったようです(民11:8)。小麦の収穫のできなかった荒野ではマナだけが唯一の食料で、彼らはひき臼に代わるものを所持していなかったはずです。モーセが命じているのは約束の地に入る前です。