エゼキエル48章 主はここにおられる

エゼ48:35「町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる」
「主はここにおられる」はヘブル語で「yehova sama(エホバ・シャマ)」で、エホバはもちろん「YHWH」のことです。これは聖書の中でエゼキエルのこの箇所にしか登場しない単語で、エゼキエル書を締めくくることばでもあります。エゼキエルの最初はケバル川のほとりで、ケルビムを見ることから始まっています(1章)。そして、イスラエルの全家に対してこれから起きることを告げました。それは、おおむねエレミヤの預言と同じもので、イスラエルが偶像を拝み、主の忌み嫌うことをやめなかったので、主のさばきが下り、バビロンによって連行されるという内容でした。37章になってから、預言の内容がそれまでのものと大きく違い、「骨に預言して言え(37:4)」と命じられ、筋、肉、皮膚がつき、神の息を吹き込まれ生き返りました(37:6-10)。さらに不思議なのは40章から始まる、エゼキエル神殿についてです。いったい、いつの時代なのか、その目的は何なのか、キリストの十字架によって贖われた教会はどのように関わるのか、と多くの疑問が残ります。しかし、これはあくまで主である神と、神の選ばれた民ユダヤ人との関係であり、最後に区分けされた町は「主はここにおられる」と呼ばれることに、全ては集約されていると思います。