レビ記5章 証言しなければのろわれる

レビ5:1「人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら――彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに――、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない」

多くの国では、罪を犯した人の自由を奪うことで罪を償うという考え方をしています。日本でも刑法があり、罪だと定められた被告人は刑務所に入って罪を償うシステムがあります。5章では「知って」いながら、証言やあるいは何もしないことで、心に咎を覚えた場合のことが書かれています。つまり、見て見ぬふりをしたり、知りながら知らないふりをすることも罪に相当するというものです。罪を犯した場合、動物の血を自分の代わりに流すことで、赦されることが書かれています(10)。これはイスラエルの民には朗報で、もし律法に反することを行なってしまった場合は、「死」だけがその代償だとするなら、カナンの地に着く前に全てのイスラエル人はいなくなってしまうでしょう。多くの律法に従って、それに違反した場合も神は準備をされておられ、そのための祭壇や洗盤が幕屋には備えられていたのです。それでも、ここにあるように全焼のいけにえ、なだめのいけにえ、罪過のいけにえなどのために牛や羊がささげられたとしたなら、いったいどれだけの家畜が毎日死んでいったのでしょうか。その死んだ動物の数だけ人は罪深いということになります。人が神と生きるためには「罪」と向き合わなければなりません。神は人を罪なき存在として造られたからです。