詩篇20篇 今こそ、私は知る

詩20:6「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる」

ダビデが最後までサウルに対して反撃の姿勢を見せなかったのも、サウルが油そそがれた者だったからです(1サム24:6)。たとえ、ダビデ自身に油がそそがれようとも(1サム16:13)、前任者のサウルの油そそぎが消えたわけではありません。ダビデは一度油そそがれたのなら、それはサウルが死ぬまで主の守りの中にあると信じていたようです。この詩の中では「主は、油をそそがれた者を、お救いになる(6)」とサウルでもダビデでも油そそがれた者は主の目にとっても大切な存在であることを歌っています。おそらくダビデは何かの苦難に直面したのだと思われます(1、7-9)。すでにダビデは、律法で定められた穀物のささげ物と全焼のいけにえは捧げ終わっています(3)。あとは聖所から主の応えを待つだけです。敵が何万もの兵士を携えて来て、その戦車や馬を誇ったとしても、ダビデにはそれらは何の興味もないものです。ダビデは「私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう(7)」と言い、決して物質的なものに心を奪われていないことを主張しています。目に見えるものではなく、霊的な戦いをダビデは言っているのです。「今こそ、私は知る」は、ダビデが神との交わりの中で油そそがれた特別な存在には、必ず主が救ってくださるという確信でした。