詩篇121篇 眠ることもない」

詩121:4「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」
「まどろむ」は眠りにつこうと、うとうとすることです。原文ではヘブル語「shamar(シャメール)」がつかわれ、「保つ」とか「様子を見る」という意味があります。「眠る」は「yashen(ヤシェン)」という単語で、一般的な眠ることを指します。人間には肉体が与えられ、どんなにエネルギーを補給したとしても、1日に1回はオーバーホールしてリフレッシュしなければ病気になってしまいます。一番手っ取り早いのが「眠る」ことです。これはどんな動物にも共通で、魚や昆虫でも眠ります。これは地上で神が作られたルールです。非公式では断眠の最長記録は11日だそうです。それは肉体という限界が与えられた生き物すべてのさがだと言えます。霊である神(ヨハ4:24)には肉体の制限はありません。天地を創造され、永遠に生きる神は「疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない(イザ40:28)」とあります。この詩篇の歌い手は決してまどろむことのないお方が自分を守ってくださることを知っていました。主が疲れることのないという知識がどこから来たかはわかりませんが、歌い手はこの地上で誰に頼るべきかを理解していたのです。現実には誰も振り向いてくれないとしても、天におられる方が見守り助けを与えてくださいます。

詩篇120篇 ケダルの天幕で暮らすとは

詩120:5「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは」
この詩の表題には「都上り」とありますが、120篇の原文には「tsarah(ツァラー)」という単語が付いており、「困難」とか「苦悩」の意味があります。都上りは英語で「ascents」となっており「登る」の意味です。この歌い手は他民族に寄留していたようで、メシェク、ケダルの名前が出てきます。ケダルはイシュマエルの次男の名前で(創25:13)、メシェクはヤペテの6男です(創10:2)。メシェク族はモスクワの語源で北に住む民族で(エゼ38:2)、ケダル族は荒野に住む民族なので(イザ42:11)、歌い手はその両方の捕虜になったか、奴隷として売られたのだと思います。エルサレムから遠くに住み、エルサレムを思うとき、自分が置かれた環境を主に訴えている詩です。歌い手が「平和」すなわち「shalowm(シャローム)」を望むとき、彼らは戦いを望むのです(7)。彼らはいつも偽りを語り、人を欺いています(2)。異教の神を信じる者たちには、イスラエルの神の戒めがありません。自分の欲のままに生きている様子がわかります。どうやら歌い手の立場は低いようなので、訴えても思い通りにはなりません。原題にある「苦悩」もうなずけます。それでも歌い手の心には主への信仰があり、主を求めたとき、私に答えられたとあります。

1サムエル31章 その上にうつぶせに倒れた

1サム31:19「サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」しかし、道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった。そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた」
サウルの死因は自殺でした。最後まで主の名を求めず、道具持ちに自分の命をゆだねようとしたのです。すでに3人の自分の息子たちが死んだことは知っています。さらに、誰よりも肩より上に高かったサウルが(9:2)集中攻撃を浴びたのは仕方のないことだと思います(3)。息子たちも死に、自分も深傷を負ったなら、次には捕らえられるか、死ぬかしかありません。サウルが恐れていたのは、捕らえられなぶりものにされることです。それでも最後の最後には主の名を叫び求めて欲しかったです。サムソンが自分の命の最後に願ったように(士16:28)、再び神に祈り求めることがなかったのは残念なことです。サウルは霊媒師を通してサムエルが言った「主は、あなたといっしょにイスラエルペリシテ人の手に渡される(28:19)」という言葉に心が支配されていました。すべてはサウルがアマレクの聖絶の中から分捕り物を残しておいたことから始まりました(15:21)。油そそがれ、王となった者がいかに主に忠実で従うかは、イスラエルの王として大切な資質だったと思います。そのためにサウルは神から霊まで注がれていました(11:6)。サウルのはじめの一歩が狂ったときから、神はサウルから離れたのです(15:9)。それほど王となることには責任があるのです。

1サムエル28章 その人がサムエルであることがわかって

1サム28:14「サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした」
霊媒は聖書で禁じられているので、詳しいことはわかりませんが、サウルが禁を破って死んだサムエルの霊を呼び出す様子が書かれています。死後の世界を知ることは聖書の中にもわずかしか記述がないために、この霊媒師の記録は参考になります。神は霊媒や口寄せを嫌っており、神以外の霊と交わることは汚れることだとされています(レビ19:31)。なによりも心が霊によって奪われることを警戒しなければなりません。それはサタンの使う、肉の思いに対する誘惑とは違って、霊に直接働きかける危険なものです。霊の分野を犯されるなら、守りようがありません。そのために神は聖霊を送られ、人の心に直接働きかける助け手として働いておられるのです。サウルの時代はまだ聖霊が下る前の時代です。サウルから神が去り、預言者にも夢にも答えられないために(15)、苦肉の策としてサムエルに伺いを立てようとしたのです。サムエルとしては煩わされたと感じています(15)。死んだ者と交わることはその人を煩わせることのようです。神が定めたいのちの時間が過ぎると、さばきの座に着かなければならいときがきます(ヘブ9:27)。それは人に定められた神のおきてです。サウルもやがて死にます。生きているあいだに死んだ者と交わったとしても、サウルが死んで後、神のさばきの座に着かないということはないのです。

1サムエル26章 あの槍で彼を一気に地に刺し

1サム26:8「アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません」」
ダビデの手には琴、サウルの手には槍という場面が2度ほど登場していますが(18:8、19:10)、琴は神を賛美する楽器で、槍は人を刺す武器です。サウルが手に握った槍を離さないのは、誰かを傷つけようとする肉の思いからです。槍はサウルの肉の象徴です。もし、その槍で刺し殺されたなら、サウルは自分の肉の思いによって死んだことになります。サウルの強情さや嫉妬心が、自分に跳ね返って死ぬのは皮肉なことです。しかし、ダビデは「油そそがれた者」の死を人が決めることはではない、ましてや自分が手を下すことなど絶対にできないと考えていました(11)。確かにアビシャイの言うように、サウルがダビデの目の前で無防備な様子をさらけ出したのは(7)、神がサウルのいのちをダビデに渡したように見えます。ダビデを追い回し、ダビデも逃亡生活に疲れていたはずです。神の与えた試練を甘んじて受け入れなければ、何のための試練でしょうか。相手が「油そそがれた者」ならばなおさらのことです。ここで逃亡劇を終わらせることもできたでしょう。アビシャイの言う人間的な思いは誘惑でしたが、ダビデ自身も油がそそがれており(16:13)、サウルを否定することは自分に注がれた油も否定することになるのです。

1サムエル24章 敵を去らせるであろうか

1サム24:19「人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように」
この言葉はサウルがダビデも自分を嫌っていて、敵とみなし、チャンスがあればダビデがサウルの命を奪いかねないと考えていた証拠となります。サウルは一方的にダビデも自分を敵視していたと勘違いしていました。それぐらいサウルの上着のすそを切り取ったことは、サウルにとって大きな衝撃だったのです(4)。もし逆の立場なら、迷わずダビデを殺していたでしょう。そんな千載一遇のチャンスを自分なら見過ごしてしまうだろうか、ダビデが自分を殺すのにこれほどの機会はないはすだろう、と考えたと思われます。ほんの一瞬にせよ、サウルがダビデを憎むことをやめました。誰かを赦さずに憎み続ける人生は苦しいものです。サウルは自分の王の立場もさることながら、ダビデが戻ってきたら自分の存在自体も消されるのではないかと恐れていました。人を恐れ、憎む生活がどれほど人格に影響し、むしばみ、破壊していくのかはサウルを見ればわかります。「あなたの重荷を主にゆだねよ(詩55:22)」とありますが、サウルに足りなかったのは主にゆだねる信仰でした。サウルが手に槍を持っている記述がいくつかありますが(19:9、20:33、22:6など)、槍はサウルが手放そうとしなかった彼の思いの象徴です。サウルが手を離し、その手を挙げて主を求めたならば、歴史は変わっていたかもしれません。

1サムエル21章 落ち合うことにしています

1サム21:2「ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています」」
聖書を読む人はこれが嘘だということがわかっています。サウルはダビデに何も命じていませんし、ダビデは誰とも落ち合うことにはなっていません。アヒメレクが言った「普通のパンは手もとにありません(4)」というのは、おそらくダビデが来たのが安息日だったので、輪型のパン12個を取り換えた直後だったと思われます。これはモーセの幕屋時代に決められた聖所での作法で(レビ24:8)、アヒメレクは忠実に主のことばを守っていたことがわかります。さらに、ダビデはアヒメレクに武器を求め、自分が倒したゴリアテの剣を手に入れます(9)。ゴリアテの持っていた槍の柄が機織りの巻き棒のようだと(17:7)あるので、その剣はバカでかいものだったと推測できます。アヒメレクのところで腹を満たし、剣を手にしたダビデはガテに向かいます(10)。ダビデの単独ででかい剣を担いでいる様子は、アキシュたちの目には変に映ったと思います。ここでダビデは気が変になったふりをしています(13)。嘘をつきたくて嘘をついたのではなく、気がふれた芝居をしたかったわけでもありません。アヒメレクのときと言い、アキシュのときと言い、命を狙われるということがどれほどダビデの精神を圧迫しているかがわかります。ダビデにとってぎりぎりの選択だったのです。