伝道者の書1章 伝道者である私は

伝道1:12「伝道者である私は、エルサレムイスラエルの王であった」
伝道者はヘブル語「qohelet(コヘレト)」が使われ、カトリックの使っている聖書には「コヘレトの言葉」というタイトルになっています。英語では「teacher」とか「preacher」が使われており、教える者や説教する者の意味があります。「伝道者」と訳したのは、伝える者として、後世でこの書簡を読む者たちへ戒めを書き記そうとしたのだと思います。とにかく、民に先立って知恵を得たソロモンが晩年になって自分の人生を振り返り、自分が得た悟りを教えるために書かれたようです。書かれている内容から、ソロモンは歳を重ねて老年になってから書かれてように見えます。そのソロモンが最初に書いたのが「空の空」というものです(2)。それは、人生とはなんと虚しいものだろうという嘆きにも聞こえます。なにしろ、ソロモンは栄華を極めた、当時最も富を所有していた王だったのですから、それだけ裕福で誰もが自分の言うことを聞いてくれるのなら何の不満もないように思えます。しかし、当の本人は、どんなに生きても同じことの繰り返しで、日は上ってもまた沈み(5)、風は吹いても巡って同じに戻り(7)、川が海に水を注いでも海が満ちることはない(8)と嘆きます。この世には満たされるものはないのです。

エステル9章 この記念が彼らの子孫の中で

エステル9:28「また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにし」
現代でもプリム祭は3月ごろイスラエルで行われています。現在のプリム祭は、仮装パレードのようなもので、多くの人がコスチュームを着て祭りに参加します。プロテスタントでは読まれていませんが、清めの祭りとか光の祭りと呼ばれているマカバイ記に基づくハヌーカの祭りもイスラエルでは有名です。エステル記はエズラ、ネヘミヤのように神の御心を求める書き方でなく、勧善懲悪の物語として聖書に編纂されています。ユダヤ人はいつもしいたけられている中でエステルやモルデカイの活躍に拍手喝采を送っていたのでしょう。そういう意味では子どもでもわかりやすく、親しみやすい物語だと言えます。創世記のヨセフも同じように、一時は王に次ぐ位に就いたとしても、エジプトやペルシャのような大国の中では、それはちょっと賢い役人程度の扱いしか受けないようです。クセルクセス王の治世は20年だと世界史の年表にあり、仮にモルデカイが総理大臣のような地位にあったとしても、優秀な王のサポート役でペルシャの歴史に名を残すことはありませんでした。それよりも、エズラ、ネヘミヤに登場するゼルバベルと一緒に帰還した名簿の中にモルデカイの名があることの方がよほど気になります。彼はアルタシャスタ王の時代には民の中に戻り、いちユダヤ人として神に尽くすのです。

エステル6章 私以外にだれがあろう

エステル6:6「行ハマンが入って来たので、王は彼に言った。「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。」そのとき、ハマンは心のうちで思った。「王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう」」
そもそもモルデカイがハマンにひれ伏すことを拒んだことが、事の発端でした(3:2)。それは王の命令に背く行為でしたが、モルデカイは罰せられるのを恐れず、イスラエルの神だけを拝む信仰を見せたのです。嫉妬深く、執念深いハマンはモルデカイだけに手を下すことをせず、彼に属するユダヤ人全員を根絶やしにしようと企んだのです(3:6)。彼の人に認められたいという欲求は計り知れず、王が栄誉を与える、と言っただけで、それは自分のことに違いないと勘違いします。この後、エステルの宴会で彼の悪巧みが王に知れ、いよいよ王の罰を受けようとしたとき、彼はエステルの前でひれ伏して命乞いをしています(7:8)。上の者にはひれ伏し、下の者にはひれ伏させるのは、現代でもよく見られる扱いにくい人たちの典型です。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」は、マーベルコミックのスパイダーマンの中に登場する言葉ですが、ハマンには権力はあっても、それに見合う責任感が欠如していました。その根本にある考えは「密雲の頂に登り、いと高き方のようになろう(イザ14:14)」というサタンの考え方と同じです。人にはどうしても避けられない誘惑は、支配力だと思います。それゆえサタンもイエス様を世界の栄華を見せて誘惑したのです(マタ4:8-9)。

エステル4章 私のために断食をしてください

エステル4:16「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」
エステル記の中でエステルもモルデカイも「主よ」とか「神よ」という問いかけはしていません。エステルが王の前に出る決心をした今、ようやく「断食」という単語が出てきて、ユダヤ人の神に頼る様子が見られます。それでも最後まで「祈る」とか「みことば」などの、イスラエルの神を感じさせる言葉は出て来ません。唯一、モルデカイがハマンに対して、ひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかったことが(3:2)、彼がイスラエルの神以外を拝むことをしないというユダヤ人の誇りを見せた逸話になっています。また、モルデカイがエステルに「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない(14)」と言ったのも、暗に主の御心がエステルに働いていることを示している言葉だと思います。このような出来事の背後でも、エルサレムでは神殿の修復が行われており、エズラ、ネヘミヤの名はエステルも知っていたと推測できます。もし、ペルシャにいるユダヤ人たちが滅ぼされてしまうことになれば、エルサレムにいる帰還したユダヤ人たちの命も危うくなってしまいます。エステルの捨て身の覚悟がなければ、神殿再建もうまくいかなかったでしょう。彼女の判断は正しく、いまこそ生死の分かれ目の大事な決断のときに断食を決意したエステルに神は応えます。

エステル2章 モルデカイはおじの娘ハダサ

エステル2:7「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである」
モルデカイという名前はエズラにも(エズ2:2)、ネヘミヤにも出てくるので(ネヘ7:7)3人は面識があったと考えられます。ネヘミヤがアルタシャスタ王の献酌官であったので(ネヘ2:1)、エステルはその前のアハシュエロス王の時代の話です。エステル記の最後はモルデカイが、アハシュエロス王に次ぐ宰相になったことが書かれていますが(10:3)、アハシュエロス自身の在位は20年とされ、エステルが王妃になったのが7年目なので(16)、それ以降ということになります。モルデカイはベニヤミン族の出身で(5)、当然、エステルもベニヤミン族ということになります。ペルシャの古い文献にはモルデカイという名は登場せず、彼が宰相だった期間が短かったのか、あるいは記録に残すほどの人物でなかったと判断されたのかもしれません。ただし、エステルに関してはアルタシャスタ王の妃だった可能性もあり(ネヘ2:6)、ユダヤ人がこの時代にペルシャ王の近辺で高く用いられた様子がうかがい知れます。それはペルシャが他の神でもかまわず信仰する姿勢があり、神殿再建も王と王子の長寿を神に祈って欲しかったからです(エズ6:10)。彼らの寛容さは、人種、性別を差別しないもので、そのためにユダヤ人は徴用されました。

ピレモン 囚人となっているエパフラスが

オネ1:23「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています」
ピレモンも獄中書簡の1つとされています。パウロとともにいるのはエパフラスで、コロサイ教会を建てた功労者です(コロ1:7)。エパフラスが何か罪を犯したのではなく、おそらく監禁されているパウロに会いに行き、そのままパウロの世話をしていたのだと思います。そのためピレモンもエパフラス同様にコロサイ教会のメンバーだったと推測されます。一般的には、ピレモンの奴隷だったオネシモが、盗みを働きローマにいるパウロへ身を寄せたと考えられています。ピレモンへの手紙がAD60年ごろに書かれたのに対し、コロサイはAD57年ごろに書かれた説が有力です。手紙の中ではオネシモがテキコとともにコロサイを訪ねることが書かれているので(コロ4:9)、すでにキリストを信じる者だったと推測できます。聖書には「あなた方の仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモ(コロ4:9)」と書かれています。もし、年代が逆でなければオネシモはキリストを信じる者でありながら、罪を犯したことになります。そうするとパウロの「獄中で生んだわが子オネシモ(10)」の意味が、さらにいっそう深い意味に感じられます。どちらにしろ、ピレモンがこの手紙を読んで、手紙を運んできたオネシモをどのように扱うかをパウロは理解していたのだと思います。

ネヘミヤ12章 すべての所から捜し出して

ネヘ12:27「彼らはエルサレムの城壁の奉献式のときに、レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行なおうとした」
バビロン捕囚の際、カルデヤ人たちがユダヤ人に「シオンの歌を歌え」といった詩が詩篇にあります(詩137:3)。それは、余興として音楽を奏でさせようとしたカルデヤ人の軽い一言でしたが、彼らの歌う歌は主をほめたたえるためのものであり、余興で人を楽しませるものではなかったのです。バビロン、ペルシャと支配者は変わっても、彼らは立琴や楽器を奏でることを忘れず(詩137:2)、主への賛美の歌を70年間歌い継がれたのだと思います。ペルシャは現在はイランとなっており、イランはイスラエル独立後トルコに次いで国交を樹立した国でした。現在は旧ソ連アメリカの力のバランスであまり良い関係ではないですが、ネヘミヤの時代に神殿再建に積極的だったのはペルシャだけでした。その首都はペルセポリスで、エルサレムからは1500キロも離れており、ネヘミヤという王の信頼を得た者でなければ、そんな離れた場所で何をするかわからず、主への賛美などできなかったと思われます。とにかく自分が何部族出身で、その役割を知っていたことは驚きです。天皇の棺おけだけを担ぐ部族、日本の八瀬童子(やせどうじ)のように、神に仕える祭司たちは生まれたときから自分の役割を知っていました(41)。70年彼らの信仰はぶれなかったのです。