すべての国に向かって怒り

イザ34:2「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ」
成熟した大人なら大抵のことを我慢し、忍耐強く辛抱するものです。それはパウロも指摘していることで、忍耐の先には練られた品性と希望が待っています(ロマ5:4)。イエス様はどうだったのでしょう?あるときは神殿の両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されています(マタ21:12)。マルコではこの直前にいちじくの木に実がないからといって呪われたことが書かれています(マコ11:13-15)。また、パリサイ人には「忌まわしいものだ(新改訳第3版では「わざわいだ」)」と罵声を浴びせることもありました(マタ23章)。ペテロには「下がれサタン」 としかりつけ(マタ16:23)、ヨハネでは「霊に憤りを覚えて(ヨハ11:33)」とあります。こう見ると、イエス様も怒るときは怒っていたようです。しかし、父なる神の忍耐は我々の想像を絶するものです。それはアダムとエバに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい(創2:16) 」と言われ、人に選択権を渡した瞬間から始まっています。神は怒らないのではなく、怒るのを遅くされているのです(詩103:8)。