再び「きょう」という日

ヘブ4:7「神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです」
ダビデを通してというのは詩篇95篇の7節と8節の言葉のことです。マサとメリバで水がないと不平を言ったイスラエルの民は、主のみわざを見ながら、主を試したのです(出17章、民20章)。心をかなくなにした民は約束の地に入ることなく死にました。それは、約束の地に入ることがあるとき、もし御声が聞こえたなら、心をかたくなにしてはならないということです。もう一度約束の地に入ることがあるのでしょうか?それをここで説明してるのです。主はもう一度、ある日を「きょう」と呼ぶことがあります。それはいつかはわかりません。今日か明日か、1週間後か、1年後か…誰にもわかりません。ただ一つ言えることは、その日が安息日に入る特別なきっかけを持っているこということです。約束の地がイスラエルに与えられても、クリスチャンの約束の地が成就したわけではありません。クリスチャンは休むことなく働き、「きょう」と語られる日まで頑張らなければなりません。今度「きょう」と言われたときは、安息日が近づいているからです。