盲人の祝福

ヨハ9:31「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています」
この盲人の信仰の拠り所は、この言葉にあると思います。自分の目を開いてくれた人が誰だかわからなくても、その方には罪がなく、神の御心を常に行う人であることを知っていました。安息日を守らない者は預言者ではない…とパリサイ人は決めつけますが、実際に目が開いた事実をどう説明するつもりだったのでしょうか?盲人にとって、安息日であろうがなかろうが、見えるようになった以上、目を開いてくださった方を証ししないわけにはいきません。ついに、宮の外でイエス様に出会った盲人は、イエス様を拝したと書かれています(38)。彼には確信がありましたが、あえて「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように(36)」と言ったのです。イエス様はその盲人には隠さずにご自分を宣言しました。彼に癒される信仰があったように、神を信じる信仰もあったことを知っていたからです。見えるようになることと、神への信仰の2つの祝福をこの盲人は得たのです。