わたしの望み

ヨブ17:15-16「私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。よみの深みに下っても、あるいは、共にちりの上に降りて行っても」
望みは「神がいる」ということです。ヨブの体が健康で、裕福で心が安らいでいたとしても、歴史は変わりません。ヨブが望むことは、苦しみから解放されることです。たとえよみに下ろうとも、最後の望みは「神が生きておられる」という一点に集中されると思います。クリスチャンが罪を犯さず、良い行いをしたとしても、それを判断する人がいなければ無意味なものになってしまいます。イエス様の言われた「右の手のしていることを、左の手に知られないようにしなさい(マタ6:3)」は、神がいつも見ておられるという確信に基づいています。誰も見ていない…は、未信者の考えることです。信仰があるなら、神の存在を確信でき、たとえよみに下されても望みを持てると思います。しかしヨブの信仰はいま、崩れようとしています。ヨブの確信は、主への信頼だったはずです。すべてを奪われたいまこそ、ヨブの正念場です。一生のうちで主が与える大きな試練が何度かあると思います。忍耐をやしなわれた者だけにわかるヨブの心のうちだと思います。