鏡に映る自分

1コリ13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」
今は一部分ですが、やがて全部知るようになる…と書かれています。全部とは「私が完全に知られているのと同じように」…つまり、主がご自分の創造された人のことを完全に理解しているように、私たちも理解できるようになるということです。逆に言うと、私たちは自分のことでさえ、一部分しか知らないのです。顔と顔を合わせて、とは何事も隠し事がない、さらけ出した状態のことを表わしています。アダムとエバは、善悪を知る木の実を食べたとき、神である主のみ顔を避けた…とあります(創3:8)。神の前に隠れずに立てる者は幸いだと思います。心に少しのやましいところもなく、堂々と主の前に立てるなら、顔と顔を合わせて、隠れることなく主と出会うことができるでしょう。そのときは自分の隠された部分も解き明かされ、主が私たちを創造された目的を知るのです。まだ道半ばなら、鏡に映る姿はぼんやりとして何かわからないはずです。主に召され、人生の目的を見たとき、鏡の自分は輝き始め、ぼんやりではなく、くっきりと見えるようになるのではないでしょうか?