異言と預言

1コリ14:22「それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです」
異言と預言について詳しく書かれています。個人的には異言はわかりますが、預言はしたことがないのでわかりません。それぞれに賜があり、主に従う心の姿勢が必要だと思います。なぜなら、異言を語る者が偉いわけではなく、預言するものが教会のリーダーになるわけではないからです。これらのものは言葉となって体の外に発せられるため、誰の目にも明らかな聖霊のしるしとなり得るでしょう。ある教会は異言を嫌います。わけの分からない言葉だし、初めて聞く人には異様にも思えるからです。パウロ自身も異言を語るときの注意をいくつか書いています。聖霊を受けたなら、霊は開かれ、異言や預言ができるようになるのは事実です。異言に関しては「解き明かし」を求めるように書かれています(27-28)。預言に関しては「吟味」が必要です(29)。神の霊が注がれたとき、人は酔ったようになり、他国の言葉を話すのです(使2章)。この出来事を見たものには、あきれる者もいれば、神を感じる者もいるのです。しかし主ご自身が、御霊を受け宣教を開始したように、あきれられたとしても次のステップに進むべきだと思います。l