平等になるわけ

2コリ8;14「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです」
教会の信仰が試されるのは献金のときだと思います。十一献金をどのように考えるかという問題もありますが、人それぞれの心に示されたようにすべきでしょう。現在は全世界的に不況となり、日本では仕事にあふれる人の数も20人に1人の割合になっています。こういう時代に教会の会計がうるおうならば、信仰の賜物だと思います。パウロは余裕があるなら、自分のために使うのではなく、足りない人を補うために献金しなさい…と教えています。そうすれば自分が足りなくなったときに、誰かが補ってくれるようになるからです。誰が裕福で、誰が貧乏かは実際にはわかりません。裕福そうに見えても不足しているかもしれないし、貧乏そうでも満ち足りているかもしれません。しかし、常に余裕があるときには多く献金するならば、平等を保つことができます。それは誰から指示されるわけでもなく、神のご意思で目には見えない不足を補ってくれるからです。心に捧げようという思いが働くときが、捧げるときです。信仰を働かせて、いつも祈り、神との会話を絶やさない人なら神の訴えるかすかな心のささやきに気づくでしょう。お金は自分のために使いたいものです。でも、あるとき主が必要を訴えているのに気づくならどうすべきでしょうか?