尻に火がつく

イザヤ42:25「そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった」
尻に火がつく…とは切羽詰った様子を表す言葉ですが、イスラエルはまさしく火が自分に燃え移っても気に留めませんでした。主の警告があったときに私たちは気づいているでしょうか?何かに夢中になり、神のことなど後回しになったり、忙しさを言い訳に神と交わることをしなかったりしていないでしょうか?イスラエルの民は他の神に走り、神の律法を捻じ曲げ、自分たちの思いのままに生活しました。それは、聖書を読む人間がイスラエルはなんと愚かなのかとあざ笑うためのものではありません。これは現在に生きる人たちへの警告でもあるのです。スタートは順調でも、途中で挫折のない人などいません。運よく何の弊害もなく人生を送れた人がいても、やがて死にます。地上で100年楽しみ、快楽にふけたとしても、死後神にさばかれ永遠の苦しみを味わうなら、快楽などバカげていることがすぐに理解できると思います。100年と永遠を比べるのも変な話ですが、それだけ地上にいる間には誘惑が多いということです。選択肢は数限りなくあります。自分の肉を満足させるだけの選択を続けるなら、尻に火がついていても気づかず、またたとえ気づいていてもどうせ死んだらおしまいと思っている人には救いはこないのです。