最後は愛

2ペテ1:9「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです」
これらとは信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛のことです。救いは行いによって得られるものではありませんが(ロマ3:23)、救われた人は徐々に神のご性質にあずかる者となります(4)。信仰から始まって最後の愛に行き着くには多くの経験が必要かと思われます。ペテロは神のご性質は、必ずクリスチャンに反映するものだと訴えているのです。その昔モーセが山で主と語らって降りてきたとき、顔が輝いて光を放っていたとあります(出34:30)。主の近くにいただけで、その栄光が人に写ってしまうのです。ペテロの言うこともうなずけます。ただし、現代では違う方法で栄光が与えられます。それは信仰から始まる8つの項目のことです。ペテロはクリスチャンになったらこれらのものが自動的に与えられるとは言っていません。逆に「あらゆる努力(5)」をして、これらのものを自分たちの性質として持ちなさい…と勧めています。それがイエス様のご性質を表わすものだからです。ペテロは「自分はいつもイエス様といた」から、イエス様のご性質をよく知っているのだ、とある山でイエス様が栄光の姿になったことを証言しています(17)。ペテロの言う「愛」は「アガベ」と原文ではなっています。イエス様を3回知らないと行った後、ガリラヤ湖で3回主を愛すると言わせてもらったペテロは最後まで「アガペ」と言えず「フィレオ」と言っていました(ヨハ21章)。しかし、この手紙の中でははっきりと兄弟愛(フィラデルフィア)の上に加えるものは「アガペ」だと書いているのです。彼もまた復活のイエス様に出会い変えられた兄弟だったのです。