敬虔でいたければ

2ペテ3:11「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」
敬虔でいようとしても、そう簡単に敬虔でいられません。何かの努力で神の言われたことを守ろうとしても、一時的には成功してもなかなか続かないものです。パウロの言うように自分を打ちたたいてでも体を服従させることも必要かもしれません(1コリ9:27)。どんなに打ちたたいたとしても、何かを守ることはできても、自らの徳が高まったり、敬虔になるということはできません。それはまったく質の違うものだからです。結論から言うと、神から離れないことが唯一の方法です。どんなにやろう、やろうと思っても、体をむち打って従わせたとしても、思い通りには行かないのです。逆に世界が焼かれなくなろうとしているのに、自分はなにをやっているんだろう…と、自暴自棄になることもないのです。神と共にいるなら、すべて必要なものは与えられます。それは物質的なことを言っているのではありません。お金や宝物は結局滅び行くものだからです。しかし、主が訓練してくださった忍耐や敬虔は永遠です。心や人格に目をとめることができるなら、何を求めるかもわかってくるはずです。「人をねたむ人格はいやだ」と神に訴えるなら、神はその祈りに答えてくださるでしょう。世が終わる前に、人格を整えていきましょう。