真実は見られています

1ヨハ1:6「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません」
毎日聖書を読んで、祈っている人でも過ちを犯すこともあるでしょう。牧師や教師だからといって人格が優れているとは限りません。だた、彼らには格別きびしいさばきが用意されており(ヤコ3:1)、役職にふさわしくないと人間的思いで彼らをさばくなら、そのさばきは自分たちに降りかかることになります。よく思い違いをするのは「罪がなくなる」と「罪が許される」を混同してしまうことです。クリスチャンになったのは罪が許されたからで、罪がなくなったわけではありません。肉の思いがある限り、聖霊に逆らう思いは消えることはないでしょう。そのために、神と共に歩むのです。ヨハネが訴えているのは、神と交わっていると言っているのに闇の中を歩むのであるなら、その人は嘘をついているということです。真実は主ご自身にしかわかりません。心から祈っているかどうかは他人にはわからないことです。しかし、主はご存知です。見えるところで派手に祈ったとしても、断食しているとどんなにやつれて見えても、心の中は神にしかわかりません。人前で見栄を張る人たちは、神にも同じく見られていることを忘れているのです。主から隠れることはできません。もし、主から隠れたと思った瞬間に罪はその人の心を支配するのです。