とどまる、を考える

1ヨハ2:28「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです」
「とどまる」はここ以外に6節、10節、24節、27節がありますが、すべてギリシャ語では「meno(メノー)」という単語が使われています。英語では「abide」「remain」などが使われ、やはりとどまるという訳が一般的です。そうすると、キリストのうちにとどまるとはどういう意味なのでしょうか?そこに滞在する、残る、もう少し進んで「耐える」という意味もあります。キリストから離れずに頑張れ…と、ヨハネは言いたかったのでしょうか?キリストにとどまることは、イエス様の言われた言葉の中にずっといることだと思います。どんなに苦しいときでも、イエス様の愛は変わることがありません。しかし、周りの状況を見るとき、どうしてもうまくいかないことや、思いどおりにならないことがあります。ときには「イエス様はもう私を愛していてくれないのだ」などと、不信仰に陥ることもあるでしょう。そんなときイエス様の言われた「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタ28:20)」に勝る言葉はありません。とどまる、が「離れない」という意味なら「共にいてくださる」という約束は心強いものです。最低でもイエス様のほうから離れることはありません。聖書の約束ですから。とどまれないとするなら、問題は人間側にあります。ヨハネは「とどまる」ことがどれだけ大変なことかを理解しています。それでもクリスチャンがイエス様にとどまるなら、来臨のときに大きな栄光を見ることができるのです。