死にさらされても

2コリ4:11「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」
死に渡されるとはどういう意味でしょうか?死ぬこと?…いや実際に死ぬならそう書くでしょう。英語では「reveal」となり、「渡される」というより「さらされている」とも訳せます。人間の死は確実にやってきます。どんなに若い人も死には勝てません。クリスチャンにも死はやってきます。救われたから大丈夫、もう死は自分を支配しない(ロマ5:17)…確かに聖書にはそう書かれています。しかし死を免れるわけではありません。ノンクリスチャンの人たちと同様に、ある時間まで地上で一緒に過ごさなければなりません。もし、クリスチャンが死ぬべきことを理解しているにも関わらず、自己中心の生活でなく、「愛」を持って多くの人たちに接するならどうでしょう?多くの人は「死」が確定しいるから、生きている間に楽しみたいのです。クリスチャンを見るとき、人の「死」の価値観は崩れます。ある人は「バカじゃない?」と言うかも知れません。死に直面している人が、死を超越した人を見たとき「新しい命」を感じるでしょう。それはイエス様のいのちなのです。