宣教はクリスチャンの手で

2コリ5:19「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです」
この言葉は、人に福音がゆだねられたことを示していると思っています。イエス様は十字架にかかり、死んで3日目によみがえり、多くの人に復活した自分を現した段階で任務完了となりました。その後弟子たちの前で天に帰られました。「ずっと、地上に残って復活した自分をすべての人に見せればいいのに」…この自分の思いは間違っているのでしょうか?人の思いと神の思いとは天地ほどの隔たりがあります(イザ55:9)。神が人を造った理由は2つです。一つは、神と交わりを持ち、礼拝するため、もう一つは神に逆らう肉体を持ちながら、神の栄光を現すためです。イエス様は私たちを輝かせるすべての手段を終えました。私たちが輝くなら、主が人を造った目的は達せます。宣教は決して楽ではありません。肉の思いはいつも、主の思いを邪魔するからです。それでも私たちが神の栄光を現し輝いたとき、人々はクリスチャンの中に神を感じてくれるのです。