隠れたところで見ておられる

マタ6:18「それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます」
聖書の中ではイエス様の直接語られたことばには赤文字で書かれているものもあります。人に見られるように何か善行をすることは、すでに報いを受け取っているのだ、と言われています(16)。隠れた所におられる父とは、目に見えない様子を比喩として表しているのだと思います。施しも(2)、祈りも(6)、断食もすべて人に見られないようにしなさい、というのは人が人の行為を喜び、褒めることをするなら、神の報いは届かないからです。それは「人の目」が人に向かないようにし、主にだけ目を注ぐべきだという十戒の戒めに沿うものです。偽善ではなく信仰…というのが山上の垂訓のテーマだと思います。神は生きておられ、律法を守れなければいけにえを捧げれば良いという時代は終わろうとしています。イエス様は父なる神は一人一人をご覧になっており、その行いに応じて報いてくださる、ということを説いたのです。祭司や大祭司、預言者などに神との仲介を頼る必要はもうありません。祭司でなくても祈ることができ、直接神と交わることができるのです。十字架のときはまだですが、イエス様は十字架の購いが完成し天に昇られた後にも迷わないように、今からユダヤ人たちに道を示しておられるのです。