私を顧みて

エレ15:15「主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください」
主に祝福されいつも満たされているなら、このような祈りをする必要はないはずですが、ダビデも他の詩篇の歌い手たちも同じような訴えをしています(詩40:17など)。「顧みる」のヘブル語は「paqad(パケッド)」で、「気に留める」「見つける」「訪ねる」などの意味があります。キングジェームスでは「visit(訪ねる)」が使われています。主がエレミヤやダビデを忘れてしまうとは思えませんが、旧約の預言者や王たちがこのように訴えるのは興味深いことです。神が長い間沈黙して、あたかも自分が忘れられたように感じるのは今も昔も同じようです。このときに踏ん張ることができ、信仰を神に見せられるならば主は喜ばれるでしょう。ときには自暴自棄になったり、失望したりすることもありますがすべて主はご存知です。罪を犯さない人はいないし、失敗をしない人もいません。それはクリスチャンになってからも同じです。ペテロの3度の否定を思い出すなら(マコ14:66-72)、たとえイエス様と一緒にいたとしても肉体は弱く、肉の思いは強いことがわかります。それでもペテロは立ち上がり、聖霊を受け力を得たのです。