退けられても

エレ14:19「あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンをきらわれたのですか。なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、いやしの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません」
神が人を打ったとしても、その人の成長を願ってのことだと思います。ヨブはその顕著な例だと思います。また銀を精錬するように火の中をくぐらせることもなさいます(詩66:10)。もう一方では神が忍耐されているのも事実です。イスラエルやユダは捕囚に遭い、国は無くなってしまいましたが民族が滅んだわけではありません。ここに神の忍耐があります。ノアの洪水の後、主は二度と洪水を起こして世界を滅ぼすようなことはない、と誓われました(創9:11-16)。しかし、イエス様はこの天地は滅びると言われ(ルカ21:33など)、ペテロは今の天地は火で滅ぼされるために残されているのだと語り(2ペテ3:7)、水の次は火によってのさばきがあることがわかります。果たして人が悔い改めるのが速いか、それとも神の忍耐が時間切れになり滅ばされるのが速いのかはわかりませんが、ユダヤ人たちが経験したことはすべて現代のクリスチャンに当てはまることです。パウロはテモテに「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(2テモ3:12)」と教えています。確かに迫害は嫌ですが、うまくいかないときほど主は近くにいるのです。