彼らはくじを引いて

1歴24:5「彼らはくじを引いて互いにそれぞれの組に分かれた。聖所の組のつかさたち、神の組のつかさたちは、エルアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたからである」
くじを引くことは人の思いから開放されることでもあります。くじはヘブル語で「gowral(ゴラル)」で、キングジェームス訳では77回聖書に登場しています。「くじ」という日本語では新改訳で68回となり少ないようですが、これは「gowral(ゴラル)」をかならず「くじ」とは訳しておらず、「割り当て(士1:3など)」などとも訳されているからです。新約でも使徒たちがイスカリオテ・ユダの代わりを指名するときにくじを引いています(使1:26)。祭司は「ウリム」と「トンミム」という石のような2つの対を胸当てに持っており、肝心な判断の時にはそれをくじのように使っていました(出28:30)。自分の思いではなく、天にその采配をゆだねることは自分に死んでいないとできないことです。どうしても今までの常識や経験が思いを支配し、荒唐無稽に思える提案には抵抗を示してしまいます。それでも紅海を2つに分け、天からマナを降らすことができる神は自分の想像をはるかに超えたわざを見せてくださります。まさに「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの(1コリ2:9)」を体験するためには自分の判断を殺さなければなりません。