幸いを下そう

ゼカ8:15「しかし、このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている。恐れるな」
「幸い」はヘブル語で「yatab(ヤターブ)」で「良いこと」とか「喜ぶこと」などの意味があります。それに対し「わざわい」は「raah(ラッアー)」で、「悲しいこと」や「喜ばしくないこと」という意味があります。「yatab(ヤターブ)」107回に対し、「raah(ラッアー)」は266回聖書に登場し、わざわいに関する聖書のことばが幸いの倍以上あることになります。一度はわざわいをくだそうと考えていた主も(14)、幸いを下そうと考えていると書かれています。それはこの章の最初に書かれてある「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ(2)」に起因しているのだと思います。どんなにユダヤ人たちの先祖が主に従わず裏切ったとしても、主の愛が変わることはありません。もう一度チャンスを与えようとしています。その条件は「互いに真実を語り」「真実と平和のさばきを行なえ(16)」「心の中で悪を計るな(17)」「偽りの誓いを愛するな(17)」の4つです。そしてこれらは主が憎むものだ(17)、とあります。主の嫌がることをするのではなく、主が喜ばれることをすることが主を愛している証しになるのではないでしょうか?