知りもせず、悟りもしない

イザ44:18「彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない」
偶像のむなしさは多くの個所で書かれています。そして、それは目に見えないものへの信頼がいかに難しいことかの裏返しでもあります。詩編では「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである(詩115:5-8)」とさらに辛らつな言葉が並べられています。そういう意味ではイスラム教徒はかなくなに偶像を作りません。さすがに、イシュマエル の子孫は、アブラハム譲りの堅い信仰を保ち、聖書にある約束のように祝福をうけています(創17:20)。しかし、彼らが正しいわけではなく、ただ偶像に頼ろうとしない姿勢においては他宗教よりましなだけです。偶像に頼らない信仰を持っていても礼拝する対象が間違っていれば元も子もありません。ユダヤ人もある時は契約の箱に頼り(1サム4:3)、あるときは46年かかった神殿を誇り(ヨハ2:20)、はやり見えるものには心が動いていたようです。信仰はバランスが大切なのです。