見とれるような姿もなく

イザ53:2「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが「見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」
エス様の容姿はサウルのように「だれよりも、肩から上だけ高かった(1サム9:2)」わけでもなく、アブシャロムのように「足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった(2サム14:25)」わけでもなかったようです。イザヤによれば「見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」とあり、まったく普通の人のようだったようです。新約ではベテスダの池でいやされた男はイエス様の顔を知らず、後からユダヤ人に誰かを聞かれても答えられませんでした(ヨハ5:1-15)。またイエス様を捕らえようとしたときも、「私は毎日宮にすわって教えていたのに(マタ26:55)」と存在を訴えています。さらにローマ兵に逮捕されるときもユダは口づけをする人がそうだ…という合図を決めており、そうでなければ誰もイエス様だと認識できなかったのです(マタ26:48)。このように容姿に特徴のないまったく一般の人と変わりない姿がイエス様だったようです。とびきり美しく誰もが慕うような姿は多くの人を魅了し、慕われるでしょうが 、それが神との関係を築く最大の要素ではないのだと思います。