わたしの好む断食

イザ58:5「わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか」
「わたしの好む断食」の「好む」はヘブル語で「bachar(バヘール)」が使われ、「選ぶ」とか「決める」という意味があります。主が選ばれた断食というのは、「私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか(3)」とか、「私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか(3)」というたぐいのものではないようです。こうやって断食を交渉の道具として使うのもいかがなものでしょうか?断食をして身を削るような思いで我慢したのだから、願いを聞き入れてください…というのはあまりにも幼稚な発想です。たとえ断食して願いが聞き入れられないとしても、主を恨んだり嫌ったりすることがあってはなりません。それは、人の側に大きな問題があるからです。むしろ飢えた者にパンを与え、家のない者を受け入れ、裸の人に服を着せることが断食だと言われています(7)。それは決して自分本位でものを考えるのではなく、苦しい時にこそ神と人に愛を示すことが主の喜ばれる断食となり得るのです。腹が減って イライラしているようでは、断食とは呼べません(4)。