わたしの安息に入れない

詩95:11「それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と」
パウロはへブル人への手紙の中で、新しい契約の人たちにも安息に入れるチャンスは残されていると語っています(ヘブ4:1-2)。そしてその根拠が、荒野で40年間さまよったイスラエルの民の罪によるものです。彼らは水が飲めないと不平を言い(出17:7)、肉が食べたいと泣き叫び(民11:4)、挙句の果てにはモーセ十戒の板をもらっている間に金の子牛を作って騒ぐという失態を繰り返しました(出32:8)。その結果、エジプトから逃れた最初の世代の人たちには約束の地には入らせないと言われたのです(申1:35)。ここではメリバとマサを主に反抗した例として書かれていますが(出17章)、イスラエルの民の主に対する裏切りはそれだけではありません。主の忍耐もぎりぎりまで続きましたが、ついにエジプトから救ったその 恵みを第1世代の人が受けることはありませんでした。この詩では最初に主への賛美が続き、後半では「もし御声を聞くなら(7)」と書かれ、従わなかったイスラエルの民が例として挙げられています。主を賛美する者は心に主への忠誠さを携えていなければならないのです。