罪にしたがって

詩103:10「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」
人にとっては朗報ですが、だからといって何をしても大丈夫という意味ではありません。イスラエルの民はシナイ山モーセの帰りを待ちきれず、偶像を作って踊っていました(出32章)。その罪を贖うために第1世代が死ぬまで40年間荒野を旅しなければなりませんでした。その結果罪を犯した者たちは約束の地には入れず(申1;35)、主のはっきりした判断は躊躇することなく実現しています。そういう意味では罪は何でも許されるということはありません。しかし、主がいつまでも怒っていないというのも真理です(9)。ダビデの言いたかったことは、主を恐れる者は目を留 められ、あわれまれるということだと思います(13)。決して主を軽んじて、許されるから何をしてもいいというものではありません。神と人との関係をわきまえたうえで、主を恐れ、崇拝し、礼拝する心のある者の祈りには主も応えてくださるはずです。主の立場は「わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ(イザ43:26)」というもので決してぶれることはありません。