怒りはここに窮まる

黙15:1「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである」
「窮まる」の漢字は「極まる」ではなく「窮」が使われています。窮するとも表現され、「詰める」とか「終わらせる」という意味です。ギリシャ語では「teleo(テレオ)」という単語が使われ、やはり「終わらせる」という意味があります。イエス様はペテロに「七度を七十倍するまで(マタ16:22)」赦しなさい、と言われました。神の忍耐は七を七十倍どころではないでしょう。限界の限界まで引き延ばし、これ以上待てないギリギリの時間まで主は人を赦し、救おうとなされているのです(14:5-12)。黙示録ではもはや、 バプテスマのヨハネのような人はなく御使い自身が福音を空から叫ぶのです。「神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め(14:7)」は、バプテスマのヨハネの「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから(マタ3:2)」ということばよりもっと直接的で怖いものになっています。7つの鉢がぶちまけられたら、もう助かる方法はありません。あまりにも恐ろしい鉢の威力が次々と描かれています(16章)。愛の神は、正しいさばきを行われる方だということを覚えておくべきです。