安息日は人間のため

マコ2:27「また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」」
マルコには書かれていませんが、他の福音書では弟子たちは穂を「手でもみ出して(ルカ6:1)」とあります。穂を摘むことも、手でもむことも「労働」にあたり、安息日に禁じられている労働を破ったと訴えられたのです。イエス様はダビデの例を挙げていますが、ダビデの時代の大祭司は「アヒメレク」でアビヤタルではありません(26)。ダビデは、「あたたかいパンと置き換えられた(1サム21:6)」ばかりの、パンの机から下げられた主に捧げたパンをもらい受けたのです(1サム21:3-6)。パンは安息日ごとに12個が置き換えられました(レビ24:5-8)。若い男は女と関係 をもっておらず、その点では律法にかなっていましたが(レビ15:18)、一般の者が聖なるものを食べてはいけないという律法には沿っていなかったのです(レビ22:10)。ダビデの時も、今回のイエス様の弟子たちの時も、ひもじいときに安息日だからと言って食べささないのは主のみ心かどうかが問われています。安息日か人かという選択なら、迷わず人を助けるのが神のみ心だとイエス様は言われているのです。