なぜ、悪者の道は栄え

エレ12:1「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか」
主が正しいことはエレミヤも重々承知のうえで、この言葉を語っています。悪者が栄え、裏切り者が平安でいられるのにもきっと理由があるはずです。悪が必要なければ、そもそもこの地上に悪という概念^さえなかったと思います。パウロが「律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう(ロマ7:7)」と言っているように、なにかを理解するためには、そうでないものをあえて示し、理解すべきことがらを浮かび上がらせるという手法を聖書は取っています。律法が罪を浮かび上がらせるものならば(1コリ15:16)、悪は「義」を浮かび上がらせるものではないでしょうか。たとえ悪者が一時的にでも栄えたとしても、それは神の許しの下にあるもので、決して信じる者の義を踏みにじるためのものではありません。エレミヤにはそれが理解できなかったのです。ある聖書学者は、最初に神を信じない者の幸福に目を留めた預言者はエレミヤだ、という人もいます。自分は不幸で他人は幸福…という図式は神を信じたとしても、耳元でささやかれる誘惑なのです。