憤りのぶどう酒の杯

エレ25:15「まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ」」
「憤りのぶどう酒」を飲ませたのは、国々の町と王にわざわいをもたらすためだと書かれています(29)。主がくださる杯にはいろいろな意味があります。ときには「油注ぎ」であったり(詩23:5)、「救いの杯(詩116:13)」、そしてここにある「憤りのぶどう酒の杯(イザ51:17)」などがあります。主がくださる杯をことわることはできません。イエス様でさえ、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください(マタ26:39)」というほど厳しい罪のための杯を飲まなければなりませんでした。ヨハネでは「父がわた しに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう(ヨハ18:11)」と言っています。また逆にイエス様は聖さんのときに「この杯はあなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です(ルカ22:20)」とも言われ、同じ杯でも意味が違ってきています。主から授かる杯が良いものであっても、苦々しいものであっても、人が飲むか否かを決定することはできません。杯は主が定めた、これから起ころうとする運命の象徴です。できればイエス様からの新しい契約の杯を飲みたいものです。