わきまえのない者は利口になる

箴19:25「あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる 」
箴言の中によく出てくる「わきまえのない者(9:6、14:15など)」はヘブル語で「pethiy(ペシー)」で「単純な」とか「純真な」という意味があります。それに対し「利口」の「'aram(アラーム)」は「抜け目のない」とか「目ざとい」という意味があります。あざける者が何か言ってきたとしても、その言葉を打ち返すことができるなら、その人は単なるお人よしではなく、狡猾な者になり得るのです。あざける者にいつまでもあざけるチャンスを与えてはいけません。わきまえのない者はわざわいを避けず、「進んで行って罰を受ける(22:3、27:12)」という同じ箴言が2か所に書かれています。人があまりにも純粋すぎるのも考えものです。イエス様は弟子たちに「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい(マ タ10:16)」と言われました。いったいどっちなのだろう…と考えてしまいますが、知識もなく、ただ素直なだけでは、敵の思うつぼです。知識は聖書からのもので、神が考えるように考えられれば理想です。何でも理解し悟った気になるのも危険ですが、いつまでも純粋な子どものようなのも考えものです。神は人が成長するのを望んでおられるからです。