私もその人を赦します

2コリ2:10「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです」
「赦す」のギリシャ語「charizomai(ハリゾマイ)」は「与える」とか「運ぶ」という意味があります。赦すかどうかは、サタンの策略の一部だとパウロは訴えます(11)。もし誰かを赦さなければ、その人も天の父に赦されません(マコ11:26)。またイエス様は「さばいてはいけません、さばかれないためです(マタ7:1)」とも言われました。「赦す」と「さばかない」は一対のもので、さばきの裏には「赦さない」という思いがはたらき、赦さないという感情の裏には「さばく」という思いがはたらているのです。「赦さない」は自分 が不利益や理不尽なことに出会ったときに起きるもので、「さばき」は自分の持つ倫理や正当性のルールが破られたときに相手に持つ懲らしめの感情だと思います。特に「赦す」ことは自分の受けた不利益や理不尽さをカバーできないままに相手をそのままにすることになります。聖書は赦すことこそ自分が赦される道だと教えています(マコ11:25)。サタンの策略にはまることなく、どんな相手でもさばかず、赦すことができたなら、その人はキリストの弟子となり得るのです。