詩篇16篇 主が私の右におられる

詩16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」
「置いた」と「おられる」とでは立ち位置が違います。「私」が主語であるなら、私の前に何を置くかは「私」の選択に関わってきます。もちろん、主を選ばす他のものを選ぶこともできます。しかし、他の神を選び、さらにその神が血を要求し、神の名を唱えるように強要されたなら(4)話は別です。この箇所の「血の酒(4)」を要求するのは、例えばモレク(新約ではモロク:使徒7:43)の神などがあります(レビ18:21)。私(ダビデ)は、自らの意志で他の神を置かず、「主」を前に置きました。もう一方の立場は「主」が主語です。主ご自身が右にいてくださるとあります。「右」は最も重要なポジションです。イエス様は天では父なる神の右の座におられます(使5:31)。この場合は「私」の最重要ポストに主がいてくださる、というものです。ダビデは神ご自身の前と右について「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります(11)」と歌っています。右はイエス様の座、正面はキリストの花嫁である教会のポジションです。