詩篇101篇 真実な人たちに注がれます

詩101:6「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます」
ダビデがバテ・シェバと関係を持ち、その夫ウリヤを戦死させたことは(2サム11:15)、預言者ナタンの耳にも入っていました。ナタンはある貧しい人の買っていた大切な羊を、金持ちの男が自分の羊を惜しむあまり取り上げてしまった話をダビデにします(2サム12:4)。そのときダビデは「そんなことをした男は死刑だ(2サム12:5)」と怒ります。ダビデにはしっかりと善悪を見分ける心があったにもかかわらず、自分の犯した過ちに目を留めることができなかったのです。イエス様は「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないの ですか(マタ7:3)」と言われています。誰かの失敗を見つけたり、責めたりすることは簡単でもいざ自分のことになるとわからないものです。それだけの客観力を身に着けるには、それなりの経験を積まなければなりません。誰もが完全ではなく、モーセダビデも失敗しています。それでもイエス様は「天の父が完全なように、完全でありなさい(マタ5:48)」と言われるのです。人には「悔い改める」チャンスが残されています。罪を悔いて、行ないを改めるなら、また真実を求めることができます。ダビデもそのようにしてきたのです。