エレミヤ6章 恥じることも知らない

エレ6:15「彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と主は仰せられる」
ユダ国にもヒゼキヤ(2王18:4)やヨシヤ(2王23:24)王の改革で主に悔い改めるチャンスはありました。しかし、ヒゼキヤの息子マナセによってすべてはだめになってしまいます(2王24:4)。さらに捕囚された後でさえも、エルサレムで最後の王であったゼデキヤは主の前で悔い改めようとはしませんでした(2王24:19)。目の前でバビロニアに包囲され、大勢の国民が連れ去られているのを見ても、その心は固く、主を見上げることはなかったのです。バビロン捕囚となった人たちは鎖でつながれ(ナホ3:10)、ケバル川沿いの収容地まで歩いて行かなければなりませんでした。そのような屈辱的な目にあって初めて、自分たちの過ちに気付くのです。ユダヤ人たちはエレミヤの言うように「恥じることを知らない(15)」民だったようです。それゆえ「わたしはこの民にわざわいをもたらす(19)」という最後通牒を言い渡されるのです。ユダヤ人は主の律法を退けました(19)。いくら律法に基づきいけにえを捧げようとも、そこに悔い改める心がなければ無意味です(20)。主は心の中を見られるからです(1サム16:7)。