エレミヤ27章 とりなしの祈りをするはずだ

エレ27:18「もし彼らが預言者であり、もし彼らに主のことばがあるのなら、彼らは、主の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主にとりなしの祈りをするはずだ」
エレミヤには宮の柱、海、車輪つきの台については、バビロンに持ち去られずエルサレムに残ると書かれています(10-20)。これはエホヤキムの治世の初めに預言されたことで(1)、捕囚に遭う20年以上前に語られたものです。前王ヨシヤは「霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った(2王23:24)」とあり、偽りの言葉を語る者を一掃したはずです。しかし、ヨシヤが戦死して(2王23:29)、わずか数か月しか経っていないのに占い師、夢見る者、卜者、呪術者がいたことになっています(9)。彼らは楽観的な預言をして、王や民衆をだましていました(10)。人はどうしても良い未来を語る人を信用してしまいます。主は「もし彼らに主のことばがあるのなら(18)」、とりなしの祈りをするはずだと言われます。本物の預言者ならば神から否定的な預言を示され、それを事実だと悟り、そのために祈るのです。「すべては益(ロマ8:28)」は究極の悟りですが、益に至るまでの過程は楽なものとは限りません。ここで主が語ったことは捕囚を甘んじて受け、「生きよ」ということでした(12)。