2列王記17章 主を恐れているのでもなく

2王17:34「彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない」
サマリヤにユダヤ人以外を住まわせたために、神は獅子を送り何人かは殺されてしまいます(24-25)。そこで、アッシリアの王は、きっとイスラエルの神を拝めば災いは収まるだろうと考えました(27)。しかし、それは上辺だけの儀式を行えば神の怒りも静まるはずだという甘え考えに基づいたものです。何よりも連行された祭司は、律法の最初、一丁目一番地が何であるかを伝えませんでした。それは「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない(出20:3)」という、十戒の最初の戒めのことです。「拝み方」でなく、「恐れ方」を伝授しなければ、礼拝のやり方をどんなにコピーしたとしても無駄です。案の定、異邦人たちは勝手な解釈で礼拝のやり方を捻じ曲げ、自分たちの神をそこにあてはめて、やりたい放題の礼拝を始めるのです(29-31)。確かに、「主」を礼拝した…とは書かれていますが、同時に自分たちの神にも仕えていたともあります(33)。こうなるともはや、何を拝んでいるのかわからない滅茶苦茶な状態です。これほどまでに主を恐れることを拒否し、他の神々に仕える姿勢は、神の目には悲しく映ったのではないでしょうか?