敵意は葬られた

エペソ2:16「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」
二つの間には「敵意」があると書かれています(15)。もし誰かが盗みを働いたら、他の人が「それは神の意思に反している」と言った瞬間に盗みは「罪」となります。律法がなければ罪はありません。罪は人の肉の思いを浮かびあげさせるもので、肉の思いは聖霊に反するものです(ガラ5:17)。パウロは罪を規定する律法が「敵意」だと言っているのです。敵意が十字架にかかったのなら、「盗み」も「殺し」もやってよいことになったのでしょうか?律法がなんでもOKになったのではなく、盗みや殺しの思いそのものが、十字架にかけられたのだと思います。もはや自分が自分の力で生きているのではなく、キリストの十字架によって神と共に生きるのです。十字架は自分が死ぬということの象徴です。十字架を受け入れることは、自分の肉も十字架にかけて死ぬことを示しています。肉が死に、御霊が生きるなら、その人は神との和解に応じることができた人だと思います。