油注がれること

詩20:6「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる」
主がお救いになるのには、条件があります。「油を注がれた者」という条件です。私たちは油を注がれているでしょうか?どんなに神に和解を申し立てても、罪を悔い改めても、受け入れてくれなければ無意味です。それは主が心の中を見られるお方だからです。うわべだけでクリスチャンを装っても、祈るフリをしても駄目です。どんなに「わたしは聖霊を信じる」と言っても、聖霊を注がれたことのない人にはわかりません。聖霊派が体験主義だと非難されるのはここに原因があります。聖書には「信仰によって」と書かれているのに、我々聖霊派は「聖霊バプテスマ」という体験を主張します。多くの福音派は、信じるだけでは駄目なのか…と反論しますが、聖霊体験のある人はそのすばらしらを主張します。異言などは顕著な例で、異様な雰囲気を嫌う人たちも多くいます。パウロも教会内での異言は慎重になるように語っています(1lコリ14:19)。聖霊の注ぎが救われる条件なら、受けるべきではないでしょうか?