顔だちも姿も…

イザヤ52:14「多くの者があなたを見て驚いたように―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。―」
鞭打たれて、顔が変形したことでしょうか?ある人たちはイエス様の十字架の様子を語っていると言います。だとしたら、なぜ神であられるお方が、このような姿にならなければいけなかったのでしょうか?言い方を変えるなら「人相が変わるほど殴られて」いた、とも言えます。なぜ神が人となり、なぜ、その人は死んでいくのか…預言を読んだ多くの人にはまったく理解できないことです。万能である絶対者が死ぬことの必然性は、人には理解できません。しかし、それが自分の罪のためであったことを知るとき、驚きと感動が人の心を捕らえます。人は生まれたときから、神から離れています。罪は「犯す」ではなく、神から離れた「状態」を指します。主は和解を自分の命と引き換えに人に提示しました。顔もそこなわれ、姿も変わり果てても、人を愛することをあきらめませんでした。次の章でイザヤは言います。「私たちの聞いたことを誰が信じたか」…イエス様が現れ目の前で十字架を見たとき、聖書のすべてが真実であることを悟ったユダヤ人は幸いだと思います。