彼の時代だけでなく

イザヤ53:8「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを」
エス様の誕生の約700年も前に語られたことです。「彼の時代」は「イエス様が生きていた時代」のことでしょう。確かに、イエス様の十字架は弟子たちにさえ判らないことでした。ましてや2000年後の現在では、なおさらのことです。一人の死がすべての人の罪のために…という概念はどうしても、理解しがたいものです。しかし一人の違反で全人類に罪をもたらしたのなら、その逆も可能なはずです(ロマ5:18)。神が望むことは、御心にかなった完全な生き方です。それは神と常に交わり、すべてを神にゆだね、礼拝を捧げる一生です。あのダビデでさえ、姦淫を犯し、殺人の罪を犯したのです。「そんな完全な生き方をしてどうするのだ?」と思う人もいるかも知れません。神は人との関係を回復したいのです。和解を受け入れ、神の元に行ける人たちは幸いだと思います。700年前のイザヤの時代も、2000年前のイエス様の時代も、そして現代も神に目を留め、いのちが与えられたことを知ることは不思議です。