主が怒るとき

イザヤ63:5「わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした」
誰かが、あるいは何かが主を助け、ささえないと怒りはそのまま人間に降り注ぎ滅ぼされるだけです。もし主が怒るのにおそくなければ、救いの時間も、宣教の時間も与えられずに時代は終わっていたことでしょう。「救い」と「憤り」は相反する言葉ですが、主が怒るときに愛する対象を酒舟で踏みつけると書かれているのです。感情に任せて怒るのは人間にもありますが、それも神のご性質の一部だと思います。今の時代は、主は怒っておられません。しかし、主の裁きの時まで秒読み段階であることは間違いありません。主は復讐される方です。目に見えないからといって侮っているなら、大きな代償を払わなければなりません。その前に主の存在を認め、主と和解し、主と共に歩むことを選択しましょう。それが本来の人間のあるべき姿だからです。