なぜ?

イザヤ64:4「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません」
人の心は複雑で、やりたいことだけをするわけにはいきません。それが社会というものであり、交わりというものです。何もかも思い通りにしたいなら、人を強制し、考えを押し付けしない限り無理です。少なからずとも人はそういう面を持っています。しかし何もかも誰かの言いなりになることはありません。自我があり、プライドがあります。人のプライドなど神の前でちり同然の価値しかないものです。それでも、主は人を救おうとしました。自らの命と引き換えに人の命を救ったのです。次の節の「それでも私たちは救われるでしょうか」は、切なる人の思いだと思います。今でも救われたことは不思議でなりません。つまらないプライドにしがみつく人間など、何の興味もないはずなのに、なぜ哀れみ、愛してくださるのか?主の考えの一片でも、理解できればと強く願います。神を信じるものが成長することこそ、最もわかりやすい神の栄光の現れだと思います。誰でも神に触れられた者は変わることができる…神に対する希望です。