義の原理

ロマ3:28「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」
人の義は、義であるイエス・キリストを信じる信仰によって認められます。義は目に見えないものです。しかし人が「律法」を耳にした時、何かしらの反応を示します。律法、つまり言葉は目には見えませんが、はっきりと影響を及ぼします。人を生かす言葉もあれば、殺す言葉もあります。励ます言葉もあれば、落ち込ませる言葉もあります。律法は、それを耳にした時に人が罪を感じるためのものです(20)。そんなものいらない…と思うかもしれませんが、罪がこの世ではっきり示されなければ、義はないのです。義があるから、罪が浮かび上がり、罪を知るから、義を求めるようになるのです。日本人に罪を知らせることは難しいことです。なぜなら、罪を知ることは義を知ることであり、義はイエスキリストだからです。聖書の律法を知るとき、罪の意識が生まれ、義を求める心が与えられるでしょう。律法の書かれた旧約聖書を学ぶことは、そのまま伝道につながると信じます。